南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅1(日詰遺跡~洗田遺跡)

南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅1(日詰遺跡~洗田遺跡)

すべてはこの一冊から始まった・・・南伊豆町下賀茂の日詰遺跡レポート

 

1980年に南伊豆町教育委員会がまとめた「日詰遺跡 本文 上」を南伊豆町の図書館で読んだことがこのブログのテーマ「南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅」の始まりでした。

先月、南伊豆町下賀茂の日詰遺跡から発掘された出土品の一部が伊豆市の展示博物館より返還されるという伊豆新聞の記事が目にとまり、そのときフェイスブックで南伊豆町議会議員の宮田さんがこの本を写真アップしたいたのがこのレポートとの出逢いでした。

これを読み進めて行くうちに、私が住んでいる弓ヶ浜周辺や南伊豆町内のあちこちから遺跡が発掘されていた事実を知ることになり、実際にその場所に行ってみたいという衝動にかられました。

 

南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅1(日詰遺跡~洗田遺跡)

青野川と一条川が合流する場所に弥生~奈良時代にかけて古代都市が栄えた

 

まずはじめに、日詰遺跡から追跡してみました。現在のマックスバリュー下賀茂店の裏手にある公衆便所あたりが遺跡の中心地です。ここは、青野川と一条川が曲がりくねって複雑に合流する地点で、昭和50年に河川の修復工事が行われる以前は水害が多発していた場所でした。

その河川工事のときにその沖積地から弥生時代後期(西暦100年~200年)から平安時代(794年~1185年)にかけての大集落跡、方形周溝墓群跡、生産跡が発見されたのです。

 

南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅1(日詰遺跡~洗田遺跡)

現在のマックスバリュー下賀茂店の裏の公衆トイレあたりが発掘の中心地

 

発掘調査は3回に分けて行われましたが、当時の南伊豆町役場の職員も少なく限られた時間と予算で十分な調査ができなかったそうです。現在も日詰遺跡を研究されている方のお話によると、おそらく実際の面積の十分の一くらいしか発掘されていなかった・・・ということでした。

 

南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅1(日詰遺跡~洗田遺跡)

日詰遺跡から発掘された弥生土器、下賀茂の道の駅「湯ノ花」で展示されている。

 

日詰遺跡の特徴は、弥生時代後期(西暦100年~200年)から平安時代(794年~1185年)にかけて数百年間に渡る重複遺跡であるということです。

卑弥呼の邪馬台国が西暦200年あたりですからその前時代の出土品が一番古いものだそうで、土器、ガラス玉、石製模造品、土製模造品、青銅製鏡、鉄製品、鉄滓などが発掘されました。

ここでちょっと横道に・・・邪馬台国論争について北九州説と近畿説が有力となっていますが、なんとこの南伊豆町説を唱えた学者がいたのです。古代史研究家の肥田政彦氏は昭和63年に「邪馬台国南伊豆町付近説」を近畿大学新聞311号に発表したのです。

肥田氏は、魏志倭人伝に記載された風習や自然風景にすべてに合致する地域は南伊豆町しかないと説きました。この論文ぜひ読んでみたいですが、長年の邪馬台国論争の重要ポイントに、魏志倭人伝の「水行二十日、水行十日、陸行一月」という一節があるそうで、当時の魏人(中国人)が複数の倭人(日本人)にヒアリングするとその位置に邪馬台国があると答えた・・・と記録されているそうです。

まあ、邪馬台国はちょっと背伸びしすぎという感じですが、この地に数百年間も古代都市が栄えていたことは明らかなようです。

 

南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅1(日詰遺跡~洗田遺跡)

大賀茂の割烹「洗田」の裏山の洗田遺跡、南伊豆の遺跡発掘はここから始まった。

 

さて、この日詰遺跡レポートには周辺遺跡についても言及されています。ただし、遺跡の名前が昔の地名(字名)なので地元の古い方にヒアリングしない とまったく場所が分かりませんでした。でも、フェイスブックなどで問いかけをするとご町内の方々からピンポイントの情報提供が多数ありとても助かりまし た。

また、有力な参考文献なども推薦してくれ、特に、「黒潮の道 海と列島文化7」(小学館)の第一章「黒潮の考古学」の「列島の古代文化と伊豆諸島」橋口尚武著、「南伊豆の祭祀遺跡」外岡龍二著が目からウロコでした。

特 に外岡説によれば、南伊豆地域(下田市も含む)の古代祭祀遺跡の発掘は昭和2年の洗田遺跡から始まり、その後多数の遺跡が発掘され、それらの特徴は、1)祭祀遺跡と製鉄遺跡が多い、2)祭祀遺跡は海の祭祀と山の祭祀に分類される、ということ であり、南伊豆の賀茂郡は大和国葛城郡の鴨地方を本拠とした豪族「賀茂一族」によって開拓されたのでは・・・と推論しています。

 

南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅1(日詰遺跡~洗田遺跡)

大賀茂の三倉山、典型的な神奈備(神体山)型で大和(奈良)の三輪山信仰からきている。

 

昭和2年の下田市吉佐美の洗田遺跡は、現在の割烹「洗田」の裏山の丘陵から古墳時代(西暦200年~592年)の山の祭祀遺跡が発掘されました。土師器、須恵器、手づくね土器、石製模造 品、土製模造品、青銅製鏡など、古代の人々が神を祀るさいに用いた道具が多数発掘されました。

驚くべきことに、当時の海面は現在よりも高く、吉佐美の大浜海岸の海水はここまで入り込んでいて、水路を隔てて対岸の神奈備(神体山)の三倉山を祀った祭祀遺跡で、これは大和(奈良)の三輪山信仰からきた祭祀だということです。

現在の三倉山には登山道があり、山頂には祠があるそうです。三倉山のふもとには金山遺跡と大賀茂遺跡があり、金山からは古墳~平安時代の製鉄跡、土師器、須恵器、灰釉陶器、鉄滓、炉壁が出土し、大賀茂からは縄文~古墳時代の土師器、石棒、へこみ石が出土しています。

 

南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅1(日詰遺跡~洗田遺跡)

大浜海岸に流れ込む川の手前の丘陵の田京山遺跡

 

洗田遺跡から大浜海岸に向かって川沿いに進むと、海岸手前の丘陵の台地に田京山遺跡があります。縄文中期(紀元前3000年~紀元前2000年)、縄文後期(紀元前2000年~紀元前1000年)、弥生後期(西暦77年~200年)、古墳(西暦200年~592年)の縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、石斧、石棒、石皿、石鍬、石錘、石匙が発掘されました。

ここは現在の民宿カトレアの裏山で墓地の上の高台で、当時の高い海面を想像しながら海側を見下ろすと、船から見てここが入り江の高台だったことがわかります。紀元前3000年の縄文人たちはここで海の祭祀を行っていたようです。

 

南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅1(日詰遺跡~洗田遺跡)

入田浜の入口の砂丘には広畑遺跡があった。

 

吉佐美から下田方面に北上すると、現在の入田海岸入口あたりの砂丘に広畑遺跡があり、弥生後期(西暦77年~200年)、古墳前期(西暦200年~350年)の弥生土器、土師器が出土しました。

さて、日詰遺跡レポートには南伊豆町&下田市エリア内で70以上の遺跡があり、遺跡名、所在地、地形、時期、出土品などが一覧できますので、郷土の古代史に興味ある方は南伊豆図書館で一読してみて下さい。

調べれば調べるほど、南伊豆町、下田市、河津町を含む伊豆半島東南部は古代の祭祀遺跡だらけです。

ここは間違いなく八百万の神々が鎮座する古代祭祀の国だったようです。

 

 

南伊豆、弓ヶ浜周辺の古代遺跡を巡る旅2(弓ヶ浜周辺の古代祭祀遺跡)に続く

 

 

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