燃え尽き症候群、メンタル不調で会社を辞めて離婚 (プロフィール1)

弓ヶ浜でサーフィン

南伊豆町で、弓ヶ浜へ30mのコテージを経営している森本です。

私が、なぜ会社を辞めて、なぜ弓ヶ浜に移住し、なぜ海のコテージをやっているのか。

36歳で脱サラからの20年間を振り返りながら書いてみます。

その目的は、大学卒業以来14年間典型的な仕事人間だったサラリーマン人生の終焉とその後の放浪、離婚、移住、起業、再婚、、、

そんな私の脱線人生を振り返りながら、今、ひょっとすると同じ境遇にあるかもしれない企業戦士たち同志に心からエールを贈りたいのです。

そんなところからこのブログを読んで頂ければ嬉しいです。

1983年、私は慶応大学商学部卒業して(株)セコムに入社しました。翌年、社内留学制度で米国アトランタ州のジョージア州立大学の大学院で病院管理学を専攻し、帰国後、医療プロジェクトに配属されました。

その後、警備アラーム部門の現場の営業所に配属され、営業、警備、管理の仕事をやり、入社14年目36歳で新橋支社の支社長となり20人以上の部下を持ちました。

支社長当時は、埼玉県の大宮市で新婚の妻と二人で住んでいて、勤務先の新橋駅まで京浜東北線で通勤していました。

大宮駅を朝6:00に出発して、勤務先には6時40分には到着していました。帰りはだいたい終電で、帰宅は毎晩1時を過ぎ、新婚夫婦の会話もなく、数時間の眠りに墜ちていました。

1年365日中で出勤しなかった日は10日あったかなあ、という感じで、世間に土日祝、盆正月、有給という「出勤しない日」があることが羨ましい日々が続きました。

新婚旅行も舞浜ディズニーランド2泊だけ、でした。そんな絵に描いたような「仕事人間」の毎日が数年続いていました。

当時はそれが「男の人生として」当然のことだと思っていたし、また、サラリーマンとして結果を出して「出世」することが最大のモチベーションだと信じていました。

しかし、この仕事一筋人生には想像すらできなかった結末が密かに忍び寄っていました。

まず、通勤途中の電車の中で原因不明の腹痛、下痢症状が頻繁に発生するようになり途中下車して駅トイレに駆け込むことが多発しました。

暴飲暴食してるわけでもないのに、通勤電車の車中のみにおいて、突然、数回も急激な下痢症状が襲ってくるのです。

たまらずに内科クリニックを数件まわって医師をハシゴしましたが、どんな診察や検査を受けても身体に異常はありませんでした。

そして、とうとうその日がやって来ました。

その日も電車内で何度か下痢症状で途中下車したのですが、新橋駅直前の車内で我慢ができず周囲にブリブリと音を立てて「うんこもらし」をしてしまったでのです。

その臭いも車内に広がり、どことなく周囲の乗客が視線を忙しく動かして犯人捜しをしているような車内になっていました。

ドアが開いて新橋駅に降りると、スリーピースのズボンの裾の左右から、茶色の下痢ウンコが一歩歩くたびに足跡のように垂れ落ちました。

新橋駅の京浜東北線ホーム上には、私が歩いたウンコ跡が点々と付いていて、私の後をついてくるのです。

ああ、あの時の恥ずかしさ、悲しみ、焦燥感、そして俺はこのまま廃人になって死んでいくんではないかという恐怖感。

その一週間後、私はそのことを妻にも誰にも相談せずに、次の転職先も考えずに、上司に退職願を提出していました。

突然、取締役東京事業部長室のドアをノックして、

私:「失礼いたします、私は会社を辞めることにしました」

上司:「どうした?何が不満なんだ、給料か」

私:「いや違います、仕事はやりがいがあったし、待遇は満足しています」

上司:「そうか・・・、で、次はどこの会社に行くんだ」

私:「まだ何も決めていません」

上司:「辞める理由もないし、次も決めてないって言うのか、一体どういうことだ?」

私:「すいません、ただ辞めたいのです」

上司:「・・・・・・」

そんな意味不明な上司との会話が20分続いた後で取締役の部屋から出て行きました。

こんな感じで、私の退職までの一連の言動はどう考えても「責任ある大人の行動」ではありませんでした。

新婚の妻にも、よくついてきてくれた部下たちにも、お世話になった上司たちにも、誰にも相談せずに衝動的に退職願を提出していたのです。

しかしながら、20年後、今の私なら分かります、当時の私が体の病気ではなく、心の病気だったことが。

今、当時の私を推察してみれば、おそらく「燃え尽き症候群」「自律神経失調症」「メンタル不調」という言葉が出てきます。

そして、それはかなり進行していて「うつ病」の初期症状だったのでは?と推察しています。

その後、会社を辞めてから2年間はまったく働きませんでした、アルバイトもしませんでした。

退職時800万円あった貯金はみるみる減り、妻から見れば相談もなく自分勝手に会社を辞めて何も働かない最低のダンナでした、そして2年後離婚届を差し出されました。

今振り返れば、会社を辞める前にメンタル不調で長期休暇でもとって、心療内科に通院して、「うつ病」治療でも受けていれば、退職も離婚も無かったかもしれない・・・

と想像することがありますが、当時36歳の私は自分が心の病だなんて想像だにできなかったのです。

今の私だったら、あの時の私に、こう声をかけてやりたい、

「お前、よく頑張ったな、ほんと良くやったよ、一歩間違えれば命まで無くしていたかもしれないな。」

「でも、もう自分を責めなくてもいいよ、お前が頑張ってくれたお陰で、今の俺は本当に幸せなんだ、ありがとう、心から感謝しているよ」

そして、36歳の心の病をもった私は、都会生活から逃げるようにして、西東京の高尾山系の陣馬山に山ごもりを始めました。

 

プロフィール2に続く